昭和40年07月11日 朝の御理解
例を取っていきますなら、双方の幸せのために、本人達の幸せのために、結婚をするのであり、またその仲介の例えば仲人が労を取らせて頂くのである。幸せのために、の結婚であり、双方の幸せのためのであるのにも、それであるのにもかかわらず、結婚と言うことになると、大変なやはり問題はいくらもあるが、もうほんとに九分九厘でけておって、ね、例えばなら、決まったときにお茶ならお茶を入れます。
もう本当に、もらいましょう、行きましょうと、言うことで話は決まっておって、も、いよいよこれは幸せになるかに見えておるのが、九分九厘でけっておって、崩れるといったようなでかた多いですね。あれはどういうようなことか、だから、なこうどなんかは、もうそれこそ、も、何と申しますかね、仲立ちするより、逆立ちせろと言われるくらいに難しいもの。ね、
本当にその問題を問題にしすぎるからじゃないでしょうか。問題をいよいよ双方の幸せのために、問題をいよいよ本人達の幸せのために、はぁこと前にこのことが分かる。ことまえに、このこういうような問題があったということがおかげであったというようにです、もう、双方がしていきゃいいけど何か知らんけれども、そこに変な双方からの意固地なものがでけた。問題をこんがらしてしまう。
本当につまらん話だと思うです。幸せになるために結婚するのであり、ね、両家のため、両家の幸せのために幸せをその、おかげを頂かなければならんのだけれもです、返って双方が不幸せになるようなことの多いのは、結局問題をいわば、いよいよ問題にしていくからなんだと。その問題を、ね、おかげのための問題にしなきゃならん、幸せになるための問題にしなければならん。
今日は、御造営実行委員の方達の委員会のですか、が、まあ今日は一時から開かれることになって、こういうような大きな問題にとにかくお広前全体が、のものが取り組むことでございますから、さまざまな問題がある。わざわざその問題をですね、こじれた方へも、その大きくしていくような考え方があるような人たちがある。その問題をおかげにしていくために、いや、もうぎりぎり言うとです、自分達がおかげを頂くことのために、その問題を見ていき、取り組んでいったら。
ことは、スムーズにいくだけではなくて、自分自身がその問題のおかげで、徳を受け、その問題のおかげで信心が分からせてもらう。その問題のおかげでよりよい有り難い御造営が成就するおかげにならなければならないと私は思うです。丁度結婚式を双方の幸せのために、本人達の幸せのためにと言うて、そのそもそもが始められるのだけれども、ね、その双方の幸せどころか、返って複雑きわまるものにして、不幸せにしていくような、さあ、さあ、中に立っとる仲人はもう仲人どん二度とするもんじゃない。
それこそ仲立ちよりも、仲立ちするより、逆立ちせろっちいうごと難しいものにしてしまう。相手のものの言いようがいっちょ悪かったちゃ、それが問題にする。もうほんにわずかな、損やら徳のことをさ、損とか徳とか言うて、大きな損とか徳とかにしてしまう。だからせわなしです。問題はめいめいがです、そのことを通して、ね、問題を問題にするのではなくて、問題をです、おかげを頂くことのための、問題にしなければならん。ね、さまざまなたとえば御用を受けたまわる人たちができる、ある。
表面に出る人もありゃ、表面には出らずにどこまでも、縁の下の力持ちの御用を受けたまわる人たちもある。そう言う様な人達からも、もう誰も知らんけど、神様だけは見のがし給うはずがない。そういう気になりゃいいんだけれども、ね、縁の下の力持ちにならせて頂いて、初めて力が出来るチャンスを頂きながらです、表面に出さなかったとか、出らなかったとか言って、問題にする。もう信心の世界、とくに椛目のお広前に御神縁を頂いてから、徹頭徹尾ある意味合いにおいては、ね。
そのくらいなことが全然問題ではない、おかげですがっと、そりゃあんたかえっておかげじゃないですか、と言うような問題をです、おかげにしきらんでおる。実際の問題になるとそんなに難しいものだと、まあ言うこともできるんですけども、それこそ信心で頂いていかなければならないことをです、信心で頂けていかんところに問題がこじれる。第一おかしい。よか顔作るとするとがおるからいかんとじゃ。
神様の前にどこまでも実意丁寧真心一筋、神様だけが御承知の世界にいきぬかせて頂く信心の稽古日頃、させて頂いておって、しかも神様の悲願達成のために神様の悲願が本当に成就することのために、お互いが奉仕しあおうとと言うのに小さい人情をだして、人情だけじゃなくて感情出して、その神様の願いの成就の邪魔になる様な事がです、お互いがです、あってわならないと言うことを、胆に命じとかないけないと。
私今日のその委員会のことを神様にお願いさせて頂きよりましたら、扇風機がこうやってこう回っておるところを頂くんですね。いつかはこれ例えば、こんな角度でこうやって扇風機が回っておるのに、だからこちらには扇風機、風は全然あたらん。どうして俺のところに風がこんか、と言わずにその風にあいたいと思うなら、ここに前にでてこなければ風にあうことはできない。
後ろの方へおっといてから、俺には風が当たらんなん言う様な事を、それがそういうことが、もし問題にでもなるようだったら、椛目の信心の恥じさらしになる。みんな信心の恥さらしになる。御造営のための御造営であっちゃならない。銘々の信心の造営のための造営でなからなければならん。いうならば、椛目15年間、または、10年間信心の稽古をさせて頂いた。その信心がどういう、ありかたでものをいうかと。
その信心がどういう風に、生き生きとお互いの信心、銘々の信心の上に現れるか、その信心がです、100か200集まったらこういう力になるものだという体験をです、させて頂けれるようなおかげにならなければならない。ね、そのことを祈るということも尊い。御造営の成就ということを願うということも有り難い。けれどもそれよりもっともっと大事なのは、銘々の信心の造営なんだ。
そこのところに焦点をおいたら、なんにも問題がないとじゃ。ね、けれども、ことがです、ね、2人や3人じゃすることではない。たくさんものが一致協力しなければできることではないのであるから、そこに引っかかり、ここに引っかかりするような問題を必ずたくさんあるだろう。問題はあるだろうけれど、そこに( ? )じゃなくて、けれども問題のおかげで、ね。
結果においてはこういうおかげを頂いていくというようなです、おかげになってきておると。本当にですね、椛目で信心の稽古をさせて頂いておるものがです、こういうときに、こういう風に信心が現れて、こういうふうにスムーズにいくんだと。問題があるならその問題をみんなが集まって検討しなければならん。よりよいおかげのために。けれどもそれがです、お互いが信心の造営どころが、自分の信心をね。
崩してしまう様な、それだけならよいけど、他の者の信心まで崩してしまう様な事があってはならないと私は思うです。触らん神祟りなし、まどげんなりよるか聞いてみようとも思わん。ね、そういう熱のない事ではなおさら出来ん。ね、よりよいおかげ頂く為に、この方がよい事ないだろうか、こうしたらもっとスムーズにいくんではなかろうか、ね、あたって砕ける、いわばそうした熱意は勿論なからなければならん。
けれどそのたんびたんびにその、その発言が生きて来るとか、その人の在り方がです、愈々おかげの方へ展開していく事の為のものでなからなければならないと。信心をさせて頂いておっても、ね、いつだったかというが、原さん所のあの一番長女が北野に縁についたとき、ね。ご主人を頂いてから行こう貰おうという事になった。問題はいくらもあった。一応やまあげてしもうてから、もう貰わないかんっちいう事になった。
お届けに来てから、そんなら辞めときなさいってもう。というふうに私がです、言わねばならないようにこんがらがった。私は無理に行けの、もらえのっていうのじゃないよと。後からそのことを原さんたち上野さん両家が考えたら、いっちょん問題ならないことを問題にして、かえっておかげというところに礼を申し上げならんことにお礼を申し上げきらずに、ね。結果においては、おかげになったけれどもです。
私にですよ例えば、もうそげなふうなら辞めなさいち。お互いがこりを積んだり、お互いが心汚したりするごたる、ごたるならもうそげなんこと辞めなさい。私を立ててくれてばししよるとかとか。というようなことをです、言わせるようなことで、があってはならんということなんです。私が、原さんか上野さん、そん時に、ああその、なら辞めなさいと。本当のおかげを頂くことのためにです、ね。
焦点をおいて、そこを日頃の信心でここを(どうりどうきく?)どう頂かせて頂くことが信心かと、ね、その物の見方考え方を日頃稽古し、習わして頂いておる、信心のないものと同じような物の見方考え方するところに、いよいよ問題がこんがらがってくる。私は今日の実行委員会は、そういうことのための、いわば自分の信心を中間においてです、テストしてみる意味合いにおいての実行委員会でありたい。ね、
これは、自分達がです、そのことに対して物の見方考え方がです、先日そのごぜのことについてです、お金を借りなならんと、借りることばっかり一生懸命になってから、出す気になったらどうかと私言うた人がある。自分が買って出すならよかけれど、判ばおすとか押さんとかちいうようなこと話があった。バカタレどんじゃあるねと私は思う。それこそ椛目の御造営のもし、まんいちです、金を借りならん時にです、ね、判ば押さんならんと。例えば保証人にならんならんと、私はこれは(想いなん?)。
それこそ、はいはいっち言うてからね、どうぞ私にはこういうものがあるから、私をそのハンを押させて頂こう私にさせて下さいって言ったようなものがです。それこそ10人、20人なたちどころに出きるぐらいなおかげを頂いておかなければ、椛目で15年間信心の稽古をしたものと言われませんです。そうでしょうが、椛目がひっかけとんしもうとる。椛目がこれからだんだん衰微していくとばし思うとる。
日頃の実力から言うても何年かすれば、いわばなら例えば借りても支払い利子がすぎるほどついとるじゃない。それひっかかったってどうあるか。ね。もし椛目にです、50人のいつも私が言う50人なら50人の十三日会なら十三日会に集まってくる連中にです、そのお話をさせて頂いたら、財産の持たんもんならハンを押すちゆうたって、何にならせんでしょうもん。ね、
持った、持たないじゃないけれども、それを一家の様に持っとる物を出しおうて、私達の心のもの財産役にたつならば、ね、私のもの判が役にたつならば、そういう大事な時に。ね。それこそどうぞお役に立たせて下さい、お役に立たせて下さい、と言う様な信者がです、もう出来とらなければならないと私は思うです。けれども人間な、欲得で出来とるもんですから、ね、はぁ今はそうじゃろうばって、先の方になって、つぶれるかも分からん。そん時は判どん押しといてから。
自分達どんかかってこんなら大変なこっちゃけん、できるだけ判な押さん方がよか、ちいうごたる、ね、考え方の程度しか信心が進んでおらんのか。そのことがそのそのね他の事はいざ知らずです、こと御造営の事に当たってから、ね、例えば100人なら100人50人なら50人の者がです、判を押させて頂く事によって、事が進む事ならばです、ね、もしそれに洩れるならばです、本当に歯がゆい思いをする位な、ものでなかなければいけんのじゃないだろうかと私は思うです。
どうでしょうか。ね、またそのくらい熱意がみんなになからなければです、始めから言って居る様に、こういう大変なことに取り組む事には出来ないと。問題を問題としてです、ね、ただ普通の信心の抜きにした、したところの問題にしたらです、これだけの事が、展開されていくのであるから、大変な問題がたくさんあるに違いがない。けれも沢山の問題をです、ね。信心をさせて頂く者の本当の見方、本当の考え方。ね、思ってその事に当らせて頂く時に、問題があればあるほど力を受けるのである。
問題があればあるほどよりよいおかげのために、その事が成就していくだろうと。今日はそういう意味合いにおいてです、ね、例えば扇風機がこうやって回るのですから、というてからです、(いてこんもんに?)までそれが回ることはでけん、回りかねん。だからその事を本気に私どもが検討するために、信心でそれをどうさせて頂く事が一番おかげかと言った様なことを練りあうために、扇風機の前に今日は、一つみんなが出らせて頂いて、ことの顛末をです、聞かせてもらい、ね。
よりよいおかげになっていくために、それを自分の信心で頂いていかなければいけない。そして私共が15年間、または10年間、または5年間、信心の稽古をさせて頂いて、はぁこういうことがこういうような心の状態で受けられる、こういう状態でこのことに取り組まれる。程に自分の信心が成長しておるということをです、神様にお礼の申し上げれるような答えがでるようなおかげをです、頂いて頂きたいなと思うんです。
おかげを頂きました。